第一警備保障における心の曙
2005.08

 日中友好の架け橋として福原愛選手の活躍は誰しも知っている話です。
卓球は昔からピンポン外交などと呼ばれ、心の交流に貢献してきました。
  田中角栄元総理が中国におもむき、日中国交正常化の快挙を遂げられた裏には、国境を越えた卓球によるスポーツ外交が以前から行われていました。
 弊社社長の実兄でもあり、弊社の顧問をしている角田啓輔 (元日立製作所〜日立物流 関連会社社長) も卓球による国際交流をしていた一人で、1956年の第23回世界卓球選手権東京大会、1957年の

第24回ストックホルム大会で日本代表選手として連続優勝を成し遂げています。

  国内においても多くの選手を育成してきた実績はいまだに母校の会報にシリーズで紹介されています。
その他アジアオリンピック、国際青年友好スポーツ大会等々数多くの国際大会に出場し、かつての「卓球日本」黄金時代を築きあげたひとりです。

 大学卒業後、社会人となり日立製作所に入社したあとも、実業団選手として活躍の傍ら、日本卓球協会の選手強化委員会の役員も勤め後輩の育成に力を注ぎ、多くの選手を世界の舞台に送り出してきました。

 1971 年に第 31 回世界卓球選手権名古屋大会終了後、アメリカ選手団が当時対峙関係にあった中国を訪問し「ピンポン外交」として大きく報道されました。


昭和47年9月 「訪中 日本卓球OB団 団長として周恩来首相と会見」

 今年は日中両国の国民、友好団体(日本側 25 団体、中国側 35 団体)がつどい「平和と善隣友好に関するアピール」が開催されています。 ( 社 ) 日中友好協会と中日友好協会の共催で、第 10 回日中友好交流会議を4月に長野市で開催、両国から 2,000 人が参加する民間交流の礎として卓球が貢献してきました。

 スポーツから民間人の輪へと広がりが見せ始めている市民による草の根友好外交です。

 角田啓輔が卓球を始めたのは、氏を取り巻く環境によるところが少なくありませんでした。

 1945年 ( 昭和 20 年 ) といえば、不幸な歴史の終焉の年でした。あの当時は戦敗国もさることながら戦勝国でさえもそれなりに戦争による影響から厳しい経済状況におかれていました。

 宮城県古川市に住む角田はもともとスポーツ好きで、当時旧制中学1年でしたが、古川警察署の裏側にあった武徳殿で、柔道や剣道を教えてもらっていました。

 しかし戦後柔剣道が一時禁止され、別のスポーツをと考えていた矢先、家の近くの呉服店が、時代の流れで商品が枯渇して開店休業状態であった大きな店舗の片隅に卓球台ひとつが寂しげに置かれていたのが印象的で、そこのご主人にお願いして卓球の練習を始めたのがきっかけでした。

 当時としては、狭い空間で、道具も少なくてできる卓球は庶民のスポーツとしてキャッチボールとともに誰でもが取り付きやすいスポーツの一つでした。

 最近は相撲道という言葉がマスコミで言われていますが、もともと日本古来の武道には心・技・体の調和を重んじ、柔道・剣道などはそのさいたるものでした。

 技は大切です。しかし力が無ければ勝てません。しかし技と力を状況に応じた判断で最大に発揮するには、心の修行を欠かすことができないとされていました。

 そこに武道という言葉がうまれたのでしょう。本来の武士は人の情けを大切にしていました。

 ご承知のように「武」とは相手の心を知って、己の行動を判断するものです。

 第一警備保障株式会社は、「武」の精神を重んずる社風があります。

 第一警備保障株式会社には角田啓輔 ( 現世界卓球選手会である「名球会」会長 ) の指導のもとに、「武」の精神を体で熟知した現在のわが国に貴重な存在にまで成長した一人の社員が頑張っています。

次回の トピックス ではその社員の紹介をしたいと思っています。

 
昭和27年11月 第1回アジア選手権大会 シンガポールにて対戦中の角田 (右)


「第24回世界選手権大会で、男子団体優勝で表彰台にたつ角田」(中央)


福原愛選手の写真は、卓球サポーターズクラブ(http://www.mrsc.jp/aichan/index.htm)の提供によるものです。
  写真は、2005年全日本混合ダブルスで優勝したときの試合中の模様です。